東北で気づいた大事なこと

執筆
2012-07-13
掲載誌
Ultimate Agile Stories - Iteration 2

はじめに

本記事は2012年発行のUltimate Agile Stories - Iteration 2に寄稿した記事である。原稿はWord文書で最終入稿しているので、Wordからテキストを貼り付けてMarkdownに整形した。一切章立てなどしていないため読み辛いが、執筆当時の気持ちを優先するためにできるだけ原文のままにしている。

本文

昨年(2011年)の7月に、岩手県遠野市にあるボランティアセンター、遠野まごころネットに震災ボランティアに訪れた。まごころネットは、昨年知り合った知人がGWにボランティア活動に行っていた場所であり、各地にあるボランティアセンターの中でも、非常に体制が充実していると聞き選択した。僕の両親の実家は岩手県一関市にあり、今回の震災では被害はなかったものの、東北出身者の血が流れている自分としては、なんとかボランティアに行きたいと考えていた。しかし現在の自宅が愛媛県なので、直接被災地へ向かおうとすると仕事の合間に行くにはなかなか難しい。ちょうど昨年のオブジェクト倶楽部の夏イベントに呼ばれたので、その次の日に、会社の仲間と東京から被災地に向かうことにした。

 車で移動したため被災地への移動に半日ほど費やし、夕方にボランティアセンターに到着した。ボランティア登録を済ませ、オリエンテーションを受けた後、次の日からボランティア活動を開始することになった。オリエンテーションで釘を指されたのは「ボランティアは自己完結すること」だった。人を助ける前に、まずは自分のことは自分で管理できるようにするという前提条件を念押しされた。まごころネットでは、大槌、釜石、陸前高田の各拠点へのボランティアを派遣していた。朝、各自が希望の拠点を選んで班を組み、それぞれのバスに乗り込む仕組みだ。僕がボランティアに携わることを選択したのは陸前高田だった。陸前高田は、先輩ボランティアの話によると一番被害が酷かったらしく、GWにボランティアに行った知人も陸前高田で作業をしたという縁もあり、そこに決めた。

 陸前高田へは全部で数十名のボランティアが向かった。途中休憩を挟んでバスにゆられること1時間程度、途中まで普通の田舎道だった風景が一変した。海岸から何キロも離れた場所なのに、錆びた車が転がっている、建物が崩壊している。海に近付くにつれて、風景はどんどん凄惨な状況になっていく・・・海が見える場所に辿りつくと、そこには・・・何もなかった。ただ廃墟と膨大なガレキが取り残されていた。声も出ない。

被災した町並み(作業した場所とは異なる)

現場に着くと、各現場の責任者である隊長を中心として、力仕事と、そうでない仕事に分かれた。僕が選んだ仕事は力仕事の方で、高台にある住宅のコンクリートの基礎の上に乗っている木材や床板を剥す作業だった。見晴らしのよい丘の上なのに、ここまで津波が来たとは到底信じることができない。

ボランティアは自分も含めて未経験の人、経験の浅い人、経験豊富な人が混在して参加する。効率的に作業をすすめるために、更に10名程度の少人数の班を作り、その中でボランティア作業経験者が班長となり、各自の自己紹介をした後に作業に入った。

梅雨も明けようとする7月上旬の強い陽射しの中、ヘルメット、防塵マスク、ツナギ、踏み抜け防止長グツといった重装備で作業にあたらなければならない。錆びた釘や、ガラスの破片、様々な廃棄物がおかまいなしに転がっている。

海水に浸った釘やネジなどの金属類がそこら中で錆びているため、床板など木材を正攻法で取り除こうとしても容易に剥すことができない。隊で持参した釘抜きのバールも人数分はない。バールは誰が持ち、バールのない自分は何ができるのか? それを否が応でも考えねばならなかった。

「バールがなければ床は剥がせない、では剥した床を運ぶことにしよう。」、「床が剥がれるまで何をすればいいか?危険物は端にどけて作業しやすいようにしよう。」 その場で考え、その場で行動するしかなかった。

被災した家屋(作業場所とは異なる)

作業当日は非常に陽射しがきつく日陰もないため、熱中症対策のため班毎にこまめに休憩をとっていた。隊全体ではお弁当が配られ、昼休憩のタイミングで「皆に伝えたいこと」をフィードバックするショートミーティングを実施した。また隊全体で作業完了後に撤収する際にも、全体ミーティングが実施され、その中で班毎から全体へのフィードバックを受け付ける機会が設けられていた。ボランティアセンターに戻ってからも、各現場から戻ってきたボランティア全員が集ってのふりかえりが実施された。そこでは「誰かのアイディアが他の人の役に立つかもしれない」ということで様々な人が手を挙げて話をしていき、最後は拍手でミーティングは終わる。その場にが溢れていた。(愛という言葉を使うのは苦手だが、こうしか表現できないのだ)

全体ミーティングの前には、新しく入ってきたメンバーへのオリエンテーションが毎日実施される。僕が初日に受けたものだ。ちょっとだけ先輩のボランティアから新参のボランティアに、大きなボランティアの流れ、守るべきルール、注意点が伝えられる。ボランティアセンターは、人が入れ替わる高い流動性を制約とする社会システムだが、そんな中で烏合の衆にならずに、どのようにボランティア作業を実現していくかはボランティアセンターとしての生命線だ。

全体ミーティングをするボランティア達

システムとして制約を受入れながら、いかに全体としてうまく機能していくかについて、経験から生みだされたこの運営手法は、自分が経験してきたアジャイルチームと多くの点で似ている。しかしここで一番大事だと感じたのは、各人の使命感や想いが本質であるという点だ。ボランティアセンターに滞在しているボランティアは、次の質問に誰もが即答できる。

「何をするためにここにいるのか」

各自の動機はそれぞれだが「被災者の役に立ちたい」という想いは共通している。そしてなにより自分の意志でボランティアセンターに来ている。アジャイルというよりも、むしろオープンソースコミュニティに近いとも言えるだろう。「自分のできることで力になりたい」という意志で人が集ってくるのだ。役に立ちたいという想いと、自己完結できる個人と、優れたマネジメントが、合わさって素晴しい結果を生み出すのだということを再認識した。どれが欠けても恐らくうまくいかない。

全員が「なぜ、我々はここにいるのか」という問いに答えることができますか?

話をボランティア作業の最中のエピソードに戻ろう。陸前高田での作業を進めていると、だんだんコツを掴んできて、解体作業はある意味爽快感のある破壊的活動となってきた。そこにあるものすべてはガレキであり、少しぐらい乱暴に扱っても所詮「すべてガレキとして捨てるもの」という認識になってきた。

そんな時、ボランティア作業の最中に、作業中の家のオーナーが現場を訪れ、捨ててほしくないものを説明しに来てくれた。そこで僕は恥かしながら初めて気づいた。

この家は廃墟ではなく、この後も再び生活したいと願う人の家であるということに。床板を剥し、ガレキを一箇所に集めることが目的ではなく、この土地で暮したいというオーナーのために、再び家を建てることができるように基礎だけの状態にするのが本当の目的だったのだ。オーナーの存在を知り、その想いを理解した後は、作業への考え方が一変した。元の基礎を傷つけないように注意しながら、あきらかなガレキはともかく、漁で使う網のようなものは、別に丁寧に置くようにしておいた。

ボランティア作業は、ボランティアセンターが勝手に行うのではなく、被災者のニーズを聞き出して、被災者が困っていることを解決してあげる活動だ。しかし今回の件では、作業を依頼した被災者の意図の説明は受けずに、ただ作業内容とゴールだけが与えられていたと僕は認識していた。依頼者の本当の想いに気づいていなかった。いくらチームが自己組織化して効率的に作業したとしても、それが依頼者の意図とずれていたら、そこには何の価値も生まれないということだ。

その仕事の依頼者の意図を、全員が正しく理解していますか?

今の日本は思っているよりずっと危機的状況にあると思う。こんな中でアジャイルに、チームで何かを成し遂げるならば、本当に必要なことにフォーカスしたいと強く思う。「誰が喜んでくれるのか」、「その人の生活をどう豊かにするのか」、「その結果社会はどうよくなっていくのか」を突き詰める必要があるのではないだろうか。アジャイルの世界で言われるビジネス価値という言葉よりも、P.F.ドラッカー氏の言う「(組織における)成果を通じた社会貢献」や、マイケル.E.ポーター氏が提唱するCreating Shared Value(CSV, 共益の創造)がより強調される必要があると考えている。

その仕事は、誰の生活をどのように豊かにしますか? その仕事は、社会をどのようにより良くしますか?

本当に大事なことを、チームでアジャイルにできたら、自分もチームも顧客もきっと幸せになれるはずだ。そこを目指して今できることをしていきたい。

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